sugar-free

「おあずけとなった今年の夏のいい日を、きっと俺達はとり返そうぜ」

わたしのすがた / 飴屋法水 @ にしすがも創造舎(受付)、巣鴨・西巣鴨周辺の4会場

台風による大雨の昨日、開幕したFestival Tokyo(F/T)10。そしてその初日12:00に情報解禁となったのが(下エントリのPort B作品と)この作品でした。飴屋さん作品だけは観ると決めていたので、即、翌日のチケットを手配して参加してきました。

というのも、かなり最初の段階から自分でも意外なくらいダイレクトにくらいました。胸がぐっと抑えられるような、息がうっとつまるような。くらってもだいじょうぶなような、気持ちが落ち着いているときに訪問したほうがいいかもしれないです。

以下、これからの方は読まないでください。


お庭の大きな穴の土の間に挟まっていた布切れを目にした時に感じたもやもやとした気持ち。地図に従って元学校の裏門から外に出て、狭い狭い住宅街を歩く。途中、両手を広げたら手が届いてしまうほどの狭い路地を通りながら、ひどく傲慢かもしれないけど「こういう家に本当に住んで生活している人がいるんだよな」と感じていました。とても古い木造の小さなおうちたち。
そこを抜けてたどり着いたところは、そうやって眺めていたお家と似た、でも確実に今は使われていない、廃屋でした。
居間として使用されていた場所を眺め、ふすまや布団の荒れた様子を観察し、ほんの少しだけとぎれとぎれに水がぽたぽた垂れる水道を眺めて「ふーん」となっていた私が思わず立ち止ったのは台所でした。古臭いガス台と機能的でないこれもまた古臭いやかん、それらにたまったほとんど土のようになった埃、タオルに籠。すぐ後ろの出口からは陽光が注ぎ込んでいて、目の前にあるテニスコートでは親子がテニスを楽しむ笑い声が聞こえてくる。
そこに圧倒的な「不在」を感じました。「生活の気配」ではなくて、単純な「不在」。「ああもういないんだ」とか「ここで営まれていた生活が」とか想像するんじゃなくて、「いない」と事実に頬をひっぱたかれたような、お腹に拳をめりこませたような重たい衝撃が。「ああ」と思わず落涙しそうな感情がわきあがってきて驚いてしまいました。


つぎの家へ。
まただれもいない家。今度はちょっと洋風です。受付でペンライトを受け取り靴を脱いで家にあがりました。入口近くに「一人で入って鍵を閉めてください」という部屋があり、閉じられたドアが本当に開くのかどうかよくわからず、とりあえず家の奥へ。蜂の飛ぶ音が聞こえて。先ほど受けた衝撃がまだお腹にたまっているのでどこかぼうっとしながら、結構な音量で鳴り響いているのにどこから発生した音なのかよくわからないところに不安を感じたりして。
ふと入口近くの部屋の前をのぞいたら、ちょうど人が入っていくところでした。やっぱりこのドア開くんだ。迷わずドアの前に立つ。そこに掲示されている文字にペンライトの灯りをあてながら読んだり消して読んだり。台所と蜂の音。ここでなぜか頭の中に流れ始める「シビーシビー」。意識の中に言葉の形をとってのぼってきてはいなかったけれど、この時点でしっかりと「お星になったのね」を感じ取っていたんだな。


ローザのはみつけられず。岸田氏含むカバーバージョン。

中に入るとそこは懺悔室。机の上の鉛筆をとって懺悔の言葉を書き込む。初日が台風だった公演の明けて2日目の昼だったので、まだ少なかったけれど、公演期間を経るにつれてこの部屋は真黒になっていくんだろうか、と思いながらそれでも隠れるような場所に言葉を書き込みました。部屋の真ん中でくるくる回ってた。外に出たら5名ほど並んでいたのでナイス判断でした。
階段を上ると机と暖炉がしつらえてある洋部屋。並べてある本と聞きとるには困難な、でも机の上の本の作者について語っていることはよく分かる音。そして時折聞こえるノイズ。階段の上〜中断でよく聞こえるその叫びは、先ほどの蜂よりも音のでどころがわからない。事前情報で知っていた「出た、吉田アミ」という下世話な感想とともにやっぱり重たい気分にどんどん浸食されていきました。

次の家までは徒歩15分ほど。さっきも通ったにしすがも創造舎の前を通り、さっきもみた歩道の並木になっている赤く色づいた実はなんだろうとか思いながら、路面電車が信号で止まっている前を横切ったり、お休みの日でしんとした市場の前を通る。へんなきもち。さっきみた景色は違う景色に見えるし、なんだか足に重しを付けられた囚人みたいな気分。

たどりついたところは病院。ここではまず「ことば」にがつんとやられてしまった。スリッパ棚の上に掲示してある言葉と、レントゲン室の入口と、「こんなところに?」てな小さいスペースに書かれていた言葉。掘られた土がたどり着いた部屋では、鏡の真ん中に取り付けられていたペンライトと自分のペンライトとの光が壁に映し出すおかしな形の光とそれにうっすら照らし出される土たちを眺め、階段をてっぺんまで登って深呼吸をしたりしました。あの「扉を閉じて入る部屋」、自分がこの作品を観ている間に抱えたもやもやした気持ちが許されるような奇妙な感覚。ここでもうっすらとしたノイズ。衝撃的なはずの展示になぜか落ち着いた安心するような気持ちを感じていました。「赦し」なのかなぁ。キリスト教を思い出さずにいられない言葉たちに操られてそう思ったのかもしれません。

受付のところに置いてあった診察記録のノート。1996年の日付。1996年と言えばもう15年近くも前のことであるから、このさびれた病院が「さびれた」という印象を持つには十分な期間なのかもしれませんが、年々、一年が早くなっている私からすると1996年はそんなに昔ではなくて、十分に知っているはずの時期であって、でもエアコンは霧ヶ峰でソファもテレビもこんなに古臭い。なんだこれは、これをみて何を思ってしまったのかしら。さっきからのもやもやとブレンドされて混乱は最高潮に、外に出て、ダメ押しのような言葉を読んだ後には深呼吸をせずにいられなかった。


どうにも息苦しくどこか悲しい体験でした。多いに戸惑った。
この後すぐに避難生活を開始したのは、偶然近かったということもあるけれど、このままの気持ちを引きずって帰途につくことが怖かった、というのもあったんです。