sugar-free

「おあずけとなった今年の夏のいい日を、きっと俺達はとり返そうぜ」

ある朝君がいなくなったから

忌野清志郎 スペシャル・メッセージ・オーケストラのライブを観ることが少し不安になってしまうのは、必要以上に盛り上がってこうぜ〜!みたいな、楽しまなきゃダメ!みたいな雰囲気を感じてしまいそうな気がするから。キヨたんが死んじゃったあと、思っていたよりもたくさんの人が衝撃をうけたことを表明しているのにも驚いたんですが、もっと恐怖を感じるくらいに驚いたのは、ほとんどの人が「悲しむことをキヨたんは望んでない」という姿勢をとっていたことでした。

ニュースが流れてかなり早い段階で発表された渋谷氏のコメントがたくさんの人に影響を与えたんだろうとは思ってます。

「後ろ向きのセンチメンタリズムを清志郎は潔しとしなかった。俺をネタにセンチになっているんじゃねえよ、と言われてしまわないようにしないと」*1

先日発売されたRockin' On増刊号でのチャボのインタビューにおいても、チャボの追悼ライブについて「センチメンタルになることなく、泣いている観客はいなかった」みたいなことが書かれていました。
そして今回のライブが実現されたことについての日高氏のインタビューでも

 「ロックン・ロール・ショーで終わり。派手に騒いで終わりだよ。俺は、「思い出」っていう言葉は使ってないだろ? 「受け入れられない」といっただけ。確かに彼はいないけどさ、しみじみなんてしたくない。清志郎くんにも俺にも向いてないよ。」*2

なんだかんだいってその歌でしかキヨたんと接してないから、かなり近い場所にいた方々がこう言っているのなら実際はそうなんだろう、とも思います。


でも。
でもさ。
正直ちょっぴり辟易。
大好きな人が死んじゃったんだから素直に悲しいです。悲しんだっていいんじゃないの。あの愛にあふれた、センシティブでシャイな歌を書いていたキヨたんは、ついセンチメンタルになっちゃってる人に「センチになっているんじゃねえよ」とは言わないんじゃないの。単なる聴き手であった私はそう思う。そう思うからこそ、あのとき読んでいた本に出てきた歌の一部「臨終はかなしいことだ 間違えるなよ」に反応したんだ。


いや、別に誰も、渋谷氏や日高氏だって悲しむことそのものをダメって言ってるわけではないとは思ってます。だけど、この風潮の中でライブ観てしんみりしちゃったら、「センチにならない」が転じて「悲しむなんてダメダメ!」みたいになっちゃってる人たちが目に付きそうでやだな、って思うんです。盛り上がってナンボみたいな。それでこそ正しい!みたいな。ちょっと宗教的なものを感じて怖い。
最近のフェスに来るコらって素直なコが多いんだなーって思っているのもあって。CDJのDJブースでUnderworldが流れてるのにDJが手拍子したらみんな手拍子しちゃう、みたいな素直さ。Underworldで手拍子。びっくりしてげんなりした。アレを観ちゃったから、渋谷氏や日高氏が「センチになっているんじゃねえよ」って言えば必要以上に盛り上がらせちゃうんじゃないかなって思っちゃう。「派手に騒いで」ってかかれちゃってるしなぁ……。
ネットを見る限りほんとに単純に悲しみを表明しているファンの人はあまりいないように見えるんです。私の観ている範囲が狭いだけだったらいいな。そしてこれまで私も黙っていたように、静かに悲しんでいる人たちがサイレント・マジョリティであってほしいな、と思います。


ぐちゃぐちゃいいながら観にいくとは思うんですけどね。ぐちゃぐちゃ思っていることが杞憂に終わる気もするんですけどね。