sugar-free

「おあずけとなった今年の夏のいい日を、きっと俺達はとり返そうぜ」

女教師は二度抱かれた @ シアターコクーン

ko-moto2008-08-17

作・演出: 松尾スズキ

出 演 :市川染五郎 大竹しのぶ 阿部サダヲ 市川実和子 荒川良々 池津祥子 皆川猿時 村杉蝉之介 宍戸美和公 平岩 紙 星野 源 少路勇介 菅原永二 ノゾエ征爾 浅野和之 松尾スズキ

2回目に行ってまいりました。前回上手側前方、今回下手側後方でした。2度目なのでストーリーを知ったうえで最初から観たので、序盤から後半の展開を踏まえた動きやセリフが発せられているのを確認しながらの観劇となりました。

思ったことを書いてみましたが、事前に情報を仕入れたくない方もいらっしゃると思うのでたたんでおきます。


もっとも印象に残ったのは、松尾ちゃんの作品でよく語られる「幸せの総量」について。今回は個人の幸せの総量を語っていました。曰く「自分は早いうちに幸せを使ってしまった(から今回の最悪な事態の責任をとる)」というようなこと。「クワイエットルーム〜」の映画では、あおいゆうちゃんが「自分が食べなかった分、どこかの誰かが食べることができる」といった形で表現されていましたし、「ドライブイン・カリフォルニア」では(少しニュアンスは異なりますが)、どうして死んだのが自分ではなくて他の人であったか、であるとか、世界の中での自分の存在意義として、自分がいた場合の世界の情報と自分がいなかった場合の世界の情報が異なる、といったことが語られていました。……どれにせよ、世界の中での自分の存在意義、ばくっとまとめてしまうと「生きている意味」について描かれ続けているように感じました。
松尾ちゃんの作品でこういうセリフが飛び出すたびに、私が幼いころにばくっと感じていた感覚を思い出してぞくっとします。風邪をひいているときにヒマで自分の手をじーっと見つめていたら「なにこの形!」と急に奇妙なものを見たような気になったこととか、体調崩して学校行事に行けなかったときに「自分が行った場合、その行事は何か変わっただろうか」と考えたこととかを思い出すのです。なんだか最近ポニョといいこの作品といい、小さいころに感じていた奇妙な感覚を思い起こされることが多いです。私……死ぬの?

それから浅野さんがサダヲをなぐろうとして、伝統(=変えられないもの)を背負ってすっくと立っている彼をなぐることが出来なかったシーン。今回は事前に「変えたくないのに変えられてしまうものと、変えたいのに変えられないもの」という松尾ちゃんのコメントを読んでいたせいかもしれません。重く響きました。

いろいろななにかを手にいれるうちに、いろいろななにかを見失っていたように思う。
大きな公演をやるたびに、ボクは。
演劇を始めた頃、確かに手にしていたなにかが、知らず知らずのうちに手から滑り落ちていたんじゃなかろうか。
それを小さな劇場でとりもどすのは簡単だ。
コクーンという渋谷の大劇場で、東急というバックボーンもふまえつつ、「演劇」を描く演劇で、ボクは失ったなにかを手にとり直したいと思っている。
まばゆいばかりの出演者を前にボクの考えなど、うっとおしいかもしれませんが、今、書け、と言われて、書くことがこれしかないので、すいません。
それじゃあ、劇を始めます。よろしくお願いいたします。

松尾スズキ  

http://www.bunkamura.co.jp/cocoon/lineup/08_onnakyoushi/index.html
シアターコクーン特集ページより

それから染さまの立ち姿にびっくりしました。歌舞伎以外では新感"染"とパルコ歌舞伎でしか観たことがなく、いわゆる歌舞伎でなくても舞台上で映える凛とした芯のある立ち姿に「やっぱり体に染み付いたものというのはすごい」と感嘆したものです。それがまたあなた、アレですもの。見事に松尾メソッドなしゃべり方と立ち姿。ふにゃんふにゃんに立ってらっしゃる。以前見たあのたたずまいの面影もなく。役がなさけないとはいえ、体からにじみ出そうなものを完璧に封印されているのにまた感嘆でした。どうなってるのあれ。

あと源ちゃん楽曲、やっぱりいいですね。最初観たとき気づいていませんでしたが、同じ曲を3,4種類のアレンジで演奏しているのが面白かった。あと源声がやはりたまりません。弾き語り音源はまだですか!
そういえば前回一緒に観にいったお友達は一瞬で源ちゃんに惚れていました。「なにあの声と離れ目!」という秀逸なコメントを残し。