sugar-free

「おあずけとなった今年の夏のいい日を、きっと俺達はとり返そうぜ」

読了

悪人

悪人

いやー、面白かった!基本、電車の中か待ち合わせの喫茶店でしか本を読まないようにしている私が、続きが気になって家で読書する時間を作ってしまったくらいでした。400ページほどの内容を4日間で読みきりまして。これは私からしたらとってもはやい。
全編、九州弁なのもたまらなかったです。いまやまねっこしても「嘘くさ」と、大阪弁でやったら瞬時に嫌われること必至な博多弁しか操れない私ですが、小学校のときはネイティブ博多弁やったとよ!

以下、あまり練れてないことしか書いてないですが、内容に触れちゃってるのでこの本未読の人は読まないでください。そして読んでみたらいいよ!


ある事件を追ったストーリーなんですが、中心はその事件ではなくて、「悪人」の起こした事件によって変わった(変わらざるを得なかった)人々が丁寧に描写されていました。
最終章は電車の中で読んでいたんですが、あやうく落涙するところでしたよ。もともと、これまでの人生をめいっぱい背負ったお年を召した方が逡巡する様子にめっぽう弱く。お父さんが最初犯人とされていた男のところに行って帰ってくるシーンと、おばあちゃんがバスの運転手さんに声をかけられるシーンなんて、ああ、今これを書いていてもじーんとする……。オレンジのスカーフとかさ……。おばーちゃーん(泣)!


ラストすごい。祐一が悪人だったのか、あえて悪人になったのか。それを当の光代が迷うような発言をしているのが「うわぁ……」と。それでも読み手である私自身は彼が証言のように光代を利用したとは思えないんです。光代の最後の発言を引き出したことは、それこそ彼にとってはしてやったりな望む結果でしょう。それでも嗚呼、30代独身女性。恋愛に対する迷いの生じ方や判断は身に迫りすぎました。
「きっと私だけが、一人で舞い上がっとったんです」



日頃の自分が無意識に行っている(行わざるを得ない)「傍観」という行為、それからそれこそここで書いている毒にも薬にもならないような傍観者としてのコメント、などの諸々について考えてしまいますね……。

(追記)
「雑踏の中の孤独」が描かれている場面がありました。このような描写を読むたびにいつも萩原朔太郎の「さびしい人格」を思い出します。

さびしい人格が私の友を呼ぶ、
わが見知らぬ友よ、早くきたれ、
ここの古い椅子に腰をかけて、二人でしづかに話してゐよう、
なにも悲しむことなく、きみと私でしづかな幸福な日をくらさう、
遠い公園のしづかな噴水の音をきいて居よう、
しづかに、しづかに、二人でかうして抱き合つて居よう、
母にも父にも兄弟にも遠くはなれて、
母にも父にも知らない孤児の心をむすび合はさう、
ありとあらゆる人間の生活の中で、
おまへと私だけの生活について話し合はう、
まづしいたよりない、二人だけの秘密の生活について、
ああ、その言葉は秋の落葉のやうに、そうそうとして膝の上にも散つてくるではないか。


わたしの胸は、かよわい病気したをさな児の胸のやうだ。
わたしの心は恐れにふるえる、せつない、せつない、熱情のうるみに燃えるやうだ。
ああいつかも、私は高い山の上へ登つて行つた、
けはしい坂路をあふぎながら、虫けらのやうにあこがれて登つて行つた、
山の絶頂に立つたとき、虫けらはさびしい涙をながした。
あふげば、ぼうぼうたる草むらの山頂で、おほきな白つぽい雲がながれてゐた。


自然はどこでも私を苦しくする、
そして人情は私を陰鬱にする、
むしろ私はにぎやかな都会の公園を歩きつかれて、
とある寂しい木蔭に椅子をみつけるのが好きだ、
ぼんやりした心で空を見てゐるのが好きだ、
ああ、都会の空をとほく悲しくながれてゆく煤煙、
またその建築の屋根をこえて、はるかに小さくつばめの飛んで行く姿を見るのが好きだ。


よにもさびしい私の人格が、
おほきな声で見知らぬ友をよんで居る、
わたしの卑屈な不思議な人格が、
鴉のやうなみすぼらしい様子をして、
人気のない冬枯れの椅子の片隅にふるえて居る。

こうして書いてみると、岩波文庫のフォントで読んでこそのこの詩のように思えてきました。