sugar-free

「おあずけとなった今年の夏のいい日を、きっと俺達はとり返そうぜ」

その音が響き渡ればブルースは加速していく

上記エントリの本は「いじめ」やら「クラス内ヒエラルキー」みたいな話も含まれていて。個人的な出来事と、世間的な出来事と、大きなのが勃発したこのタイミングで読んでいたものでいろいろと考え込みました。あーでも結局のところは「最近ついてないのです」ってことになってしまうのかな。

暗いし浅いのでたたみます。

  • スパイラル

私が通っていた中学は横浜らしくまだ少しヤンキー文化が香る中、いじめのターゲットが1月ごとに変わっていくような奇妙な学校でした。
そこから入った高校はなっかなかのお坊ちゃん&お嬢さん学校で。
高校に入ったときに実感したのが「上も下もスパイラルだな」ということ。
キラッキラした人が多かったんだー。かわいい制服着てかわいいバッグもってかわいい靴はいてかわいい髪形してかわいい仲間たちとかわいく笑って先生とも仲良し!みたいな。横浜のヤンキー文化香る中から飛び込んだそこはまばゆい世界だったのです。そんでそのかわいいコたちは屈託なくて田舎モノにも優しく接してくれる。
恵まれた環境で育つ→自分にお金をかけられる→きれいになる→ちやほやされる(少なくともさげすまれない)→屈託なく育つ→きれいになる→……みたいな好循環。目の当たりにすると圧倒されます。
そして中学のときにあったヘンな文化を思うと、その逆を行くのもまた簡単なことだと思ったのです。

  • いじめられっこ

上記エントリの本でもいじめであるとか、学校(クラス、学年)という小さな単位の中で生まれる思春期特有の軋轢についてかかれてました。さらにこのエントリ*1を目にしたり、掲示板とかでよく人を揶揄するように使われている「こいつ昔いじめられてたんだよねpgr」みたいな記述を改めて目にしたり。
一度(いじられる、ではなく深刻に)いじめられた(と感じた)人は、いつまでたってもその「いじめられた」を背負うことになってしまうのだなと。好循環スパイラルの「屈託なく育つ」に支障が生じるんですかね。屈託を背負ってしまったために、たまに顔を出す卑屈であったりねじまがった考え方に対して、「昔いじめられてた」がいつまでも十字架として存在し続けることにそら恐ろしさを感じます。だって逆ってなくないですか。「あいつ昔いじめてたんだよねpgr」。いじめてた経験がある人は、それを反省することはあるかもしれないけど、それによって人格を評価されることは、いじめられてた人に比べると圧倒的に少ないかと。
だからこそ「学校でひとりでいること」は、「禁じられている」というよりも「周りを過剰に心配させてしまう」んだろうと思ったのです。

事件そのものも、その後の報道のされ方も「弱い者たちがさらに弱い者をたたく」のように見えてしょうがない。
ニュースでは池田小のことが取り上げられてるけど、思い出すのは池袋の通り魔事件です。加害者に一切同情する気はないけれど、一歩間違えて負のスパイラルにはまったらもしかしたら自分だったかもしれないと恐ろしくなる。「(加害者の)気持ちがわかる」だなんて一切思ってないですよ、念のため。

ママンが過労で倒れたり(もう大丈夫になりましたが)、入社してからことあるごとに私のことを気にかけてくれていたオッチャンが急にお亡くなりになったり、世間的には急に理不尽に殺されてしまった方々のニュースが流れていたり、付き合いの長いともだちが結婚したとたんに非婚者をさげすみ始めたり、元彼に改めて「死んじゃえよ」という感情をこんなに死に対してしめつけられるような気持ちなのに抱いたり、ナンシー関展で「さすが多いね」とつぶやいていたシベ超(違)が亡くなったり、たまたま手にとって本は上記のような内容だったり。
まあ、これは負のスパイラルにはまっているではなくて、なぜかいっぺんにやってくる、そんな化粧品の買い時みたいなよくない出来事たちに気持ちがふさぎがちってことを書きたかっただけなんですけれどね。はきだしてしまいたかっただけ。