sugar-free

「おあずけとなった今年の夏のいい日を、きっと俺達はとり返そうぜ」

読了

クワイエットルームにようこそ

クワイエットルームにようこそ

立ち読みで済ませてしまっていた*1のをようやくちゃんと読みました。映画を観てしまった後だと「おお、映画と同じ」「ここはちょっと違うんだ」という読み方ばかりしてしまうのがもったいない気持ちでした。


東京大学「ノイズ文化論」講義

東京大学「ノイズ文化論」講義

おもしろすぎてピックアップしてしまいたいところばかりでいつまでたってもまとまらず。自分のためのメモを残しておきます。
長くなったからたたみます。たいしたこと書いてないです。内容に触れているのでこれから読むつもりの方はたたんでる中は読まないでくださいませ。そして、力強く「この本読もうよ」と叫びます。

  • 前作の「80年代〜」と比べると、こちらは現在について語られているということ*2
  • 宮沢氏のブログをみるようになったこと
  • アウトプットとしての「ニュータウン入口」を既に観ていること*3

がよりこの本の記述を身近にしているかと。

再開発で生まれるものはノイズを排斥されたものである。昨今のショッピングモールやら新しい建物の中がみんなおんなじ。そして「なかったこと」にする気持ち悪さ。
初めて「美しい国」というフレーズを耳にしたときに、政治家としては抽象的なことをいうなぁ、という思いだけでなく、なんか胸の奥にたまったもにょもにょしたものの正体はこれだったのかもしれない。

連合赤軍が、革命を起こす前に内部から壊れていった経緯とそうなった考え方について。青春に一度は経験してしまうかもしれない無力感とかについて考える……とかいって青春とはほど遠い今だって簡単にはまる罠かもしれないよ。存在しない谷や、存在するけれども実際はもっと狭い谷をどうしても越えられない精神について。

ここであげられてたポツドールチェルフィッチュのお芝居、偶然にも私は同じ日に観ていて、しかもポツドールの公演はチェルフィッチュの出演者のうちのお一人のお隣で観ることになったのでした。そしたらあの内容でしょう。隣が気になってしょうがなかったんです。
ポツのお芝居の中でサラリーマンが出てきたときに、あの世界の中ではサラリーマンがあまりにもまっとうなばかりに「異物」に見えました。そしてこのあたりの記述を読むと、岡田さんがついたってしまったと指摘されている、ちょっとした「上から眺める視線」に自分も立ってしまっていることに気づかされるんです。
80年代〜の中では触れられてましたが、この本では特にとりあげられていなかった「夢を追う」タイプの「今の」フリーターについて「今の」宮沢さんがどう感じられているのかを知りたい。

理想の生活環境として綿密に計算されて作られたノイズのない世界であるところのニュータウンで起こった殺人事件*4を例として、整いすぎた世界では内部からノイズが噴出してくる。その噴出によって、ニュータウンの姿が立ち上がってきたという話。

総じて、整いすぎたものは面白くないと思っている自分の中にも、多分にノイズを排除しようという部分があるということを感じ続けました。

パのつく少女たちだって歌ってる「カンペキな計算で作られたこの街を逃げだしたい壊したい真実はあるのかな」。

*1:と言ったらものすご驚かれた

*2:この本の冒頭にこういった主旨の記述があります

*3:この講義が行われているときには制作過程であった、宮沢氏主宰の遊園地再生事業団の公演

*4:サカキバラセイトの事件