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「おあずけとなった今年の夏のいい日を、きっと俺達はとり返そうぜ」

チェルフィッチュ稽古場公開 @ 急な坂スタジオ

「三月の5日間」海外ツアーに向けて行われた稽古場公開。開始前に稽古場公開について岡田さんから数分のお話があったあと、「三月の5日間」の第9場(デモに参加したヤスイくんが怒られちゃいました、のシーン)が行われました。下西さんと村上さんのシーン。私は次があったので15:00〜16:20くらいまでみていましたが、稽古をつけられていたのは村上さんでした。

以下、その場にいた方しかわからないような書き方になっているかもしれません。個人的には「ほうほう」と思うことをたくさんみせてきかせてもらえたのでメモとして残しておきたい、という気持ちだけで書いてしまったので。なのでたたんでおきます。


再演のトークで岡田さんが「動きに関してはある程度俳優を信用しているのでアドリブ的動きはあるけれども、言葉については一切アドリブはない」とお話されていたのを覚えているんですが、そのポリシーにのっとりながらも非常に細かい演出が行われていました。「振り付け」と言われることも理解できるし、「俳優を信用している」という言葉もまた理解できる形で、1シーンが終わることがないくらい、途中途中に細かい指示が入っていました。その指示も「指示」というより「示唆」というカンジ。演じているその体の動きを客観的に見て「今こうなってる、これはこうであったほうがいいんじゃないか、それはどう考えたからそう動いたのか、そして今いったことがどういうことかは分かっているのか」と1つ1つの動きに対して、事実と自分の思いと俳優の思いとを逐一確認する作業。

途中「大きい絵をみて。小さい絵だけがぽこぽこ生み出されていて、生み出すこと自体はいいんだけど大きい絵をみたうえで生み出して」という示唆があり、それに対して客席から質問が飛んでいまして。それに対する答えがなんだかすごかった。
「考えていることのうち、表に現われることというのはほんの少しである。心の内を表現することっていうのは、それが得意な人と苦手な人はいる。だけど、得意な人と苦手な人の違いって言うのも実はほんの小さな差でしかない。表に現われているのはまさに氷山の一角であって、これだけの(大きなブロック)のうち、表にあらわれているのはほんのここ(ブロックの突端)だけなわけです。その突端の大きさがちがったところで、抱えているものの大きさからすると、見えている部分の大きさの差と言うのはほんの小さなものです。だからこそ、どんな動きをするのであれ、抱えているものの大きさ=大きな絵を意識しないことには説得力なんてものは出てこない」……大まかに言えばこんなこと。これなぁ……。これは演劇表現だけに限らないこと。少なくとも私の日常である仕事においてはしょっちゅうしょっちゅう忘れては確認し、忘れては確認し、という作業が必要になることであって。そういったことがこういう場所で出てきたことには驚きました。そして、そういうところがこの作品を何度も何度もみてしまう、みてしまいたくなる根っこなんじゃないだろうかと思いました。

それから、「言葉と動きがシンクロする」ことを「つまらない」「説得力がない」「体の意味がなくなってしまう。言葉をきっかけに動きを変えてしまうのならば、その体の動きは既に言葉になってしまうから、うすっぺらい表現となる」と何回も何回も繰り返しおっしゃっていたのが印象的でした。ともすれば通常私たちが話しているときの仕草がデフォルメして表現されているように見えてしまうものですが、全く質の違うものでした。そして、これが何回もみてしまいたくなる「根っこ」の上での「表現テクニック」なのだろうかと感じたり。

このあたりを聞いていて、吾妻橋で2回見たほうほう堂との「ズレスポンス」のことを思い出していました。レスポンスのズレ=ズレスポンス。その面白味は言葉のある場所に何をおいた説得力だったのかしら。

途中で出て行くのが非常に悔しい、興味深い稽古場でした。最後まで観たかったな。
急な坂スタジオは、野毛坂の本当に「急な坂」にありました。老松会館を思い浮かべれば当然っちゃ当然なんですが、思っていたより大きくて立派な建物でした。ちょっと口あけて「はあ〜」て眺めちゃった。一日フリーにして野毛山動物園に行くコースにしとけばよかったな〜。ちょっと体調がよろしくなかったので、稽古場公開前にやっていたハズのボクデスパフォーマンスにはいけませんでした。