sugar-free

「おあずけとなった今年の夏のいい日を、きっと俺達はとり返そうぜ」

[play]ゾウガメのソニックライフ / チェルフィッチュ @ 神奈川芸術劇場 大スタジオ

作・演出 : 岡田利規
出演 : 山縣太一 松村翔子 足立智充 武田力 佐々木幸子
舞台美術 : トラフ建築設計事務所

ko-moto2011-02-05
ダンスフロアに華やかな光。

「いつも新しい方法をやり続けていきたい」という意味合いのことが書かれたパンフレットを開演直前まで読んでいたのだけど、始まったときに思ったのは「あ、戻った」ということでした。ステージ上にカメラがあってセットはシンプルでその中に机があって山縣&松村さんが出演されていて、っていう表面的なことにすぎないけど。ルキノさんが出演されなくなったなぁ、とか思ったのでたぶん初めてのチェルフィッチュだった「ポスト*労苦の終わり」を思い出していたのでしょう。観終わったいま思うとぜんぜん似た作品ではなかったです。セットや役者が似ていても、話し方とか動き方とかピックアップして思い出すと全く違う。


チェルフィッチュを観るとき、いつもものすごく個人的な、「……どこにしまってあった!?」て自分に問いたくなるような記憶が急にクローズアップされて混乱しちゃうのです。岡田さんいわく「あまりにもストイックだった」前回の公演「わたしたちは無傷な別人であるのか?」の公開稽古を観に行ったとき、その後もインタビューで言われていた「インセプション」。「受精」を表す言葉で、公開稽古のときの岡田さんの例えだと「ビールを飲んだら体が反応して顔が赤くなったりするでしょう。それと同じで、言葉を観客にぐぐーっと押しつけて、それによって観客の内側でなんらかの変化が起こること」*1。それをこの公演ではやりたいんですよというお話でした。そのときに思ったんです、「そんなのずっと前からできてるよ、岡田さん!」。特に「目的地」「三月の5日間」で感じたことはすごくよく覚えてる。そしてこの公演でもやはり個人的な思い出、しかもものすごくネガティブなことがぶわーっと去来してしまって、観ている間、かなりしんどい思いをしました。いや、観ている間だけじゃなくて翌日も含めてしんどかった。


この公演を見終わったころにTwitterで「わからない=つまらないなんて日本だけではないか」という記述を見つけて、それに対して「大好きなチェルフィッチュなんてわたしいっつもわかんないよ」て書いたのですよね。そうよ、わかったことなんかないし、今回もわからなかった*2。だけどサンボマスターの「言葉にならないから歌を歌うんですよ!」じゃないけど、おそらくこういう形でしか表現できないからこういう形になったものを分からないながらに受け取って*3、そして思ったこともやっぱり言葉にならない、という状態そのものがおもしろいなって思う。自分が何かの表現者だったから、ここからまた言葉にならないから表現して……、って連鎖してったりするんでしょう。

たたんだ中には観ていて思ったことを覚書程度に記録しています。


「言葉」だなぁ、ってずっと思いながら観ていました。頭の中を空っぽにしてぼんやりフラットな気持ちで眺めていると*4、そして時おり目を閉じて、そしてそのままちょっぴりおちたり(えへ)していると、頭の中に言葉が入り込んでくる感覚がありました。それから、こう、ちょっと一瞬「あら、春樹みたい」と思ったりとかして。「春樹みたい」と思ったのは、電車に乗ってたらいつの間にかどっかについてた、的な展開が出てきたところです。それでも「じゃあ小説でやればいいじゃん」とは決定的に違う。これをうまく説明できれば「お芝居なんて生で観なくてもDVDで観ればいいじゃん」を説得できるんだろうな。


チェルフィッチュの作品は上述のようにいつもよくわからないから、他に観た方がどう感じたかを知りたくてよく検索するのだけど、演出と身体表現に言及したものばかりで、紡がれた言葉そのものについてと「その演出と身体で表現された作品を観て、“私はこうこう感じた”」についてが書かれているものは本当に少なくて。今回のようにテキストが目立つ作品をきっかけに「岡田さんの言葉」について*5語ってくれる方が増えてくれるとうれしい。


「人は誰でも愛する者の死を願うものだ」って誰がいったのだっけ*6、「普通がいちばん」と言ったのは宮藤さんだった、岡田さんは「日常を大切にする」風潮に疑問を感じる、という発言をされていながら、この作品の中で「満ち足りた生をおくりたいものです、でもそれには日常が必要です」という言葉を書かれてました。そして「旅」を代表として描かれる「非日常」も結局は「日常」に組み込まれてしまう、と。「着実な日常を送りながら、たまに旅にでる日常」。無力だなあわたしは。


それから太一氏が繰り返していた頭を床にごちっとつける姿勢。わたしあの頭がごちっという音にもやもや。嫌というのではなくて。バイク事故にあうたびに必ずヘルメット越しに感じる頭を打つ音を思い出してるし、昔たまにみたちょう怖い夢(赤ちゃんをあやしているうちに落としてしまう)を思い出してるし、もしかしたらにっちもさっちもいかない状況になったときにイーッとなって頭をぽかぽかしたくなる、ああいう気持ちを思い出してるのかもしれない。


ラスト、これまでになかった「映像と舞台上が影響しあう」あの場面。「あっ」って思った。なんかあのシーン、この作品のラストのラストで、「チャンネルが変わった」ておもった。

*1:うろ覚えの概略で書いてます

*2:自分もたたんだ中に書いているけど、今回の公演の感想を眺めると「今回はかなりわかりやすいほうなのでは」と書いてあることが多いので、「わからないけど好きだ」って感じている人は少なくないのでは。と、信じているのだけどどうでしょう。

*3:ここで何も受け取れないと「わからない」=「つまらない」のケースかもしれないな。

*4:上記のように思い出でフル回転しているのだけど、観劇に臨む姿勢としてはいつも「頭の中からっぽ」なんです。これもチェルフィッチュを観る際のふしぎで好きなところ。

*5:「だらだらしたしゃべり方」以外の部分で

*6:「異邦人」でした。正しくは「健康な人は誰でも、多少とも愛する者の死を期待するものだ。」