sugar-free

「おあずけとなった今年の夏のいい日を、きっと俺達はとり返そうぜ」

転校生 @ 東京藝術劇場 中ホール

ko-moto2009-03-28

作:平田オリザ
演出:飴屋法水

21人の女子高校生のために書いた平田オリザの戯曲『転校生』に、演劇界・美術界で伝説的な話題を集める飴屋法水がSPAC - 静岡県舞台芸術センターの製作により挑んだ衝撃作の再演がついに実現。出演するのは、静岡県全域からオーディションで選ばれた女子高校生たち。ある高校の教室、いつもと変わらない日常に、突然ひとりの転校生が現れる・・。単調な日常に潜む他者との出会い、人間の存在の不確かさが浮かびあがる。
http://festival-tokyo.jp/program/transfer/index.html


すっっっっっばらしかった。
明日までで、A席しか残席ないようですが、みんな観にいけばいいと思う。つか、私が行きたいくらい。


池袋にたどり着く前に「ホントに18:00でいいんだっけ?」と不安になり、携帯でチェックしてみたら「18:00定時に始まりますのでお早目のご来場を!」と強調して表記されてまして、さらにチケット引き換えで並んでいたら入場時に必ず目に付くあたりに「お隣の劇場の都合上、本日は18:05に開演します」との但し書き。すごくきっちりしている、そのわけは作品を観ればすっきり理解できました。


一度全員出てきたあと、初めて舞台上から全員いなくなったシーン、舞台上に並べられた教室の椅子にかけられた制服のジャケットやカバン、ぬいぐるみやオブジェなどが一枚の絵のように美しい風景に見えました。舞台上から客席後方にはけていく女子高生たちの内容はききとれないくらいのおしゃべりがその絵に懐かしさと切なさを浮かび上がらせてぞくっとした。

それから、照明の大きな装置が上下して幕のように使われていたのが目にも耳にもステキでした。機械が動くときのあのサイバーな音が、舞台上で繰り広げられている世界の生々しさを際立たせているようで。……正直、人が立っているところに徐々に暗転しながら照明が下降していったときには「こわっ」と思って「スザナ!」とか心の中で叫んだりしました*1。ちょういいシーンなのになんとくだらない。でも、許容範囲を超えたことが起こったときに、とりあえずそれはおいといて「体育館履き持ってきてくださーい」とか言っちゃったりする高校生らしさを自ら体現したかと。してないね。ごめんなさい。装置がステキだったんです。


とりとめがないようにも見えたそれまでのシーンが全て、全て必要であったと思わされるラストの展開には感動しました。こんなにはっきりと「感動だ」と思うことはめったにないくらい。
「今自分は高校生だからこんなにつまんないことでくよくよしたりしちゃうんだ、大人はそんなことないから、だから大学生になりたい。」とつぶやく女子高生に対して、そうじゃないことを知っている世間的には立派な大人の自分と、高校生の頃は確かに大人をそう見ていたことを覚えている自分と。さらに女子高生たちが教室で繰り広げる会話のテンションに自分が高校の頃に男子たちに「お前うるせーよ」と言われていたことを思い出しつつも、教室の中を俯瞰したらこんな風景だったかどうかをうまく思い出せないほど遠くなってしまっていることを実感していたところできたラスト。


一列になって手をつないで「せーの」とジャンプする彼女たちは、大きなジャンプ音をたてながらキラキラした笑顔で飛んでいて、そして後ろのスクリーンには彼女たちの生年月日と氏名が表示されていて、このとき以外に劇中に発せられた大きな音と対比すると、その「生」の強さ*2や輝かしさに目がくらみました。そして、そのときはどうして(How or Why?)なのか分からずぐぐっと感動して涙が出てきたのでした。


時報のアナウンスが鳴り響く中、今まさに同じこのときを共有している私たちは、年齢も違う知らない人どうしだし、完璧に相手のことをわかることも自分のことをわかってもらうこともできないけれど、確実に同じとき、年、月、時、分、秒を一緒に刻んでいて、確実に理由のない死に向かっていて、そして理由のないまま受けた一度しかない生を生きているんだ。


思えばタイトルテロップが表示されたとき、「転校生」から「転生」になり、最終的には「生」という文字のみ表示されて徐々に暗転していったのでした。


(追記メモ)
パンダの映像後に流されてたスピーチ。

園子温監督の「自殺サークル」。「せーの!」はこの映画の生死を反転したものだそうです。観たことなかったけど強烈ですね……。

*1:キャンディ・キャンディですよ。テリュース・G・グランチェスターがキャンディのもとを去る原因となった事故ですよ。

*2:「生命力」という言葉よりもこっちの方がしっくりくる