チケットを譲っていただいてとてもいいお席で永作さんを堪能しました。
以下、これから観る方にはネタバレと思われるかもしれませんのでたたみます。
「嫌な女」てのは演劇に「発声する」という要素があるだけに難しいものなのかね、と思いました。永作さんはとっても「嫌な女」であろう設定の主人公を演じていらっしゃったのですが、(セリフにもあるとおり)「明るい」んですよね。「理由のない」悪意をこれでもかこれでもかとすべて「外に向かって」放っている様子は、分かりやすすぎてあまり怖くも嫌でもない。「理由のない」悪意って怖そうなものなのに。描かれている「理由のない」悪意は理解不能で恐ろしいかと思えば実はそうではなく。理由がしっかりある、しかも周りから暴かれて初めてその内面の恐ろしさが発露していた広岡さん演ずる女性の方がよっぽど女性らしくて怖い。これは「普段怒らない人が怒ると怖い」という感覚に通じているのかもしれませんが。
本谷さんの作品を「遭難、」以来*1観なくなったのは、「嫌な女」の言動が、行き当たりばったりの思いつきのみで行われた愚かなものにしか見えなくなってしまったからなんです。「嫌な女」というより「馬鹿な女」。本谷さんの描く「嫌な女」は「嫌な女である自分」を自覚して、ある意味「嫌な女である自分」をアピールしているように見えるんです。私の思う「嫌な女」は自分が嫌な女だとは思っていない、あるいは、自分が嫌な女であることを巧妙に隠します。相手をやりこめたいときに、自分が悪者(嫌な女)に見えるようなマネはしない。それに単純に、そうと気付いていない人間の方が大抵どうしようもないものだと思いますし。
私が本谷さんの作品で「とことん嫌な女」を観たいと思っているから、私の観たい「嫌な女」と、本谷さんの作品で描かれている「嫌な女」との間のギャップにちょっとイライラしてしまうってだけなのかもしれません。本当はそのイライラを描かれている「嫌な女」に対して持ちたいんだ。別に本谷さんは「嫌な女を描きたい」と思ってらっしゃらないかもしれないので、勝手な言い分ですけど……。
あと、セットのつくりがポツを思い出させるもの*2だったので、ついポツと比べてしまいました。「嫌な」人間を描くことにかけては私はやっぱりポツの方が好みなんだなぁ、と勝手に比較して感じておりました。
こういう勝手な言い分を取り除いて作品のみを観たら面白かったです。
「分かりやすい理由のある人」をうらやんだ経験とか思い出しましたし*3。「理由のなさ」を主張しまくっていた主人公が「なんであたしが」ってぽろっと言っちゃったあたりとラストは気持よかったです。ラストシーンが特に主人公の心の行き場のなさがあの動作だけで表現されていて、観ているこちらの気持は逆にすっきりしました。あぁ、これこれ、こうゆうの!って思った。
そして永作さんが細くてかわいくてまいっちゃったぜ!(結局そこか)