昼鑑賞。
芝居自体の感想の前に……。
入場の際のカメラチェックからしてイヤな予感はしていたのですが、嵐ファンにはさまれての鑑賞。正直カンベンしてくれ、と思いました。お芝居の途中、二宮さんが出てくると息をのむ、友人同士でコメントを吐く、舞台から二宮さんが降りてくると身を乗り出す、休憩時間および終演後の大声でのニノ賛歌……。この舞台には通常のコンサートではなく、お芝居自体/蜷川さん演出/岩松さんのストーリーを見にきている人がいることを忘れないで欲しいと思いました。とても良いお芝居だっただけに、(そんなことないとは思いたいですが)お芝居じゃなくて二宮さんだけを見に来ている人に囲まれるのは悲しいことでした。マナーの範疇だと思います。
さて、感想です。とっても良いお芝居でした(ネタばれしまくり)。
一昨日の映画と同じく、「答えは観客の中にある」タイプのお芝居であったのではないでしょうか。
「でしょうか」となるのは、ストーリーは非常に難解であるからです。説明なんてとてもできない。自分の感じたことが正解(自体もないんだろうな)であるかどうかも分かりません。ただ、感銘を受けました。
- 今見ているシーンはいつの話?
- 今見ているシーンは現実?妄想?妄想ならば、誰の?
上記2点を常に感じるお芝居。であるにも関わらず、お芝居をずっと支配している雰囲気は、寂しさ、諦念、焦燥……。
「今日好きな人は明日嫌いになる」「死んだ人に明日なんてこないよ」「来るのよ。あなたにも明日はくるの」。
そして「成長を止める」。
ナオヤにとって「成長を止める」こととは何だったのか。今日好きな人を明日嫌いにならないこと? 誰かの役にたつこと? 本当はないらしいゼラニウム = 過去(?)を見つめつづけるナオヤ、二千円を返しつづけるナオヤ。ナオヤは、死んだふりが得意な鳥のように開放されるんだろうか。それとも鳥の開放はある意味残酷さの象徴であったのか。
ナオヤは「過去」を信じつづける。
マリーは「明日」を信じつづける。でもその「明日」は希望の「明日」ではない。
ナオヤもマリーも「明日」を恐れている。だからといってこの瞬間に生み出されていく過去を慈しんでいるわけでもない。二人は原始的な方法で暖めあうことでこの認識を共通のものとしたのではないでしょうか。
一見矛盾した考えや感情が同じ人の中に存在。登場するキャラクターのほぼ全員が、さっきまで笑っていたかと思うと激昂し、さっきまで泣いていたかと思うと急にシニカルな笑みを浮かべる。「過去」と「未来」と「好き」と「嫌い」。これらに境界はなく、同列に一人一人、「みんな」に存在しているように見えました。
……書いてみるとやっぱり解釈できていないですね。このお芝居のファクターであると私が感じた事柄を羅列したに過ぎない文章になってしまいました。つたなすぎ。ちょい高だったのと、帰りにロビーに寄れない事情があったので、パンフも原作本も買えなかったのですが、脚本は入手したいですね。
さて、役者さんたちについて。
二宮さん。(失礼かもですが)想像していたよりも安心して見れました。感情が高ぶった時の表現が独特だなぁと思いながら見ていました。特に発声。声を前に前に出すのではなく、一度頭に抜けさせた後に出した、頼りないような切なさを倍増するような不思議な声をしてました。ちょっとだけ聞き取りにくかったかな。
小泉さん。ちっちゃくて色っぽくて文句ナシにキレイ。最初こそちょっと舞台舞台した台詞回しだなぁ、と思いましたが、少し演技がかった方が魅力的に見えるキャラクターだったんだなぁと。
勝村さん。とても魅力的な演技。役自体、最も理解しやすいキャラクターだったように思えます。一番セリフがスムーズに入ってきました。
杉本さん。コメディリリーフ? 楽しく魅力的でした。
勝地さん。すまん、「ちょっと待って、神様」のいい男だ! と思ってみてしまいました。淡々と見えるお芝居でしたが、きっと難しい役なんだろうなと思いました。
蒼井さん。すごく演劇的なハキハキした発声とお芝居で、キャラクター設定通り、ちょっとイライラさせてもらいました。